心と和 第七杯『 7 』
先日、27才の誕生日を迎えた。
阪神淡路大震災の数十分後に生まれ、成人で仏道へ入ってからは7年目。
この「7」という数字は、世界的に特別な意味を持っている。
良い印象の「ラッキーセブン」
西洋では、旧約聖書の「創世記」に「神が天と地と万象とを6日間で創造し、7日目を安息日(休息日)とした。」と記されていることから「聖なる数」とされている。
そして、仏教に於いても「7」はとても大切にされている。
例えば、人が亡くなった際の法事は「初七日」から始まり、7日を7回重ねる「四十九日」。
これは、仏様であるお釈迦さまがこの世に生まれた際に遺された逸話を由来とするのだそう。
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お釈迦さまは、この世に生まれてすぐ七歩あるき、天と地を指差して「天上天下唯我独尊」と叫ばれた。
これは現代的に言うと「自分とは、この世界でただ一人しかいない尊い存在である」という意味である。
そして、それはお釈迦さまだから言えたのではなく「七歩あるくことによって」初めて言えたと考えられている。
六歩までは、人間の迷いを表現した六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の世界を表しており、七歩目はその迷いを抜けたことを表す。
人間は能力、学歴、財産、地位、健康などの有無といった何らかの条件によって尊いのではなく、それら全てを超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を皆が持って生まれてくる。
そんな己を見出すことが私達にとって大切で、そんな六道をも超える道を生涯かけて明らかにせんと歩まれたのがお釈迦さまなのである。
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これによって、仏教では『7=迷いを抜ける』を意味する特別な数字として扱われてきた。
だからだろうか、仏門を歩み始めて7年目。
今まで抱えていた不安や違和感が無くなり、「僧侶としての自分」にようやっと馴染んだ気がする。
それはきっと、私が「自分は僧侶だ」と思うだけでなく、私のことを「僧侶」と信じて当たり前に扱ってくれる他者によって養われた心でもあるのだろう。
人が社会で「我が道」を歩むには、その道を歩ませてくれる他者が要る。
それは、道を用意したり手伝ったりということだけでなく「受け取ってくれる」存在だ。
名前を呼ばれることで私と気付けるように、人は「そう扱われる」ことで「そう成る」。
そんな遣り取りの繰り返しで、人は確かな自分を紡いでゆくことが出来るのでしょう。
人は誰しも自分から生まれてくるのではない、他者から生まれてくるのだ。
それだけは、時代や社会が変わっても絶対に変わらぬ揺るぎない真実である。
そうして、皆に育まれた私と共に僧侶としての道をこれからも歩んでゆきたい。
そこに迷いは、もう無い。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
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