心と和 第三十一杯『鵲橋』
近頃「もっと⚪︎⚪︎だったら」と思うことが増えて来た。
健やかに生き、何不自由なく歩みながらも、何故か「物足りない」と想ってしまう自分が有る。
褒められることがあっても「上には上が在る」と素直によろこべない。
幸福を感じることがあっても、幸福を感じてしまったが故の苦悩がまた訪れる。
「これを失ったら」「もっと良いものを」
そんな欲が湧いてくる。
ないものねだりより、有るものをよろこびましょう。
法話に於ける常套句が刺さる。
「ありがとう」の一言でよろこびに浸れたら、どんなに幸せだろうか。
現代は元々幸せな人しか幸せになれない
そんなことを数年前から想うようになった。
幸福が自分で掴み取るものなら、苦悩もまたそういう面を含んでいる。
他者より何かを与えられたとき、幸福に慣れている者は、与えられたものを素直に受け取り、その喜びに浸れるだろう。
しかし、奪われることを知っている者は、何かを与えられた瞬間から「奪われる恐怖」と戦うことになる。
「可能性に対する苦悩」ほど度し難いものは無いのだ。
そんな中、明日は「七夕」。
彦星と織姫が年に一度の逢瀬を叶える日。
想い合う二人が離れて暮らす、いわば遠距離恋愛中の恋人同士なわけだが。
先述の事柄を抱いてこの関係を聞くと、その素晴らしさが身に沁みる。
「いま何をしているのか」「誰と会っているのか」
離れているが故の「不信」「恐怖」
実態の無い「自らが作り出す苦悩」が、遠距離での関係に於ける一番の敵だろう。
勝手に不安になって、勝手に崩れ落ちる。分かる。
だが、私達は「可能性に苦悩」することもあれば「可能性を喜ぶ」ことも出来るのだ。
たまにしか会えない。
だからこそ「次会ったら」を楽しみに想える。
「もう会えない」可能性に恐怖するか「また会える」可能性を喜ぶかは、私に与えられた自由でもあるのだ。
ついつい隣の芝が青く見え、自分自身が見窄らしく感じてしまう私達。
何かを補いたくて「もっと」欲しがってしまう。
けれど、そこにどんな色を塗るかは私次第。
何をどれだけ手に入れても、自分がそれを喜べなければ、いつまで経っても芝は青くならないだろう。
どんな風にも受け取れる世の中。
だからこそ、泣いたり怒ったりしながら、最後には喜べる心を根底に据えて歩んで行きたい。
そんな相を天の川に想いながら、今日も一杯。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
https://twitter.com/manohara_mani
https://www.instagram.com/manohara_mani/?hl=ja
https://www.facebook.com/myosho