近頃「もっと⚪︎⚪︎だったら」と思うことが増えて来た。

健やかに生き、何不自由なく歩みながらも、何故か「物足りない」と想ってしまう自分が有る。

褒められることがあっても「上には上が在る」と素直によろこべない。

幸福を感じることがあっても、幸福を感じてしまったが故の苦悩がまた訪れる。

「これを失ったら」「もっと良いものを」

そんな欲が湧いてくる。

ないものねだりより、有るものをよろこびましょう。

法話に於ける常套句が刺さる。

「ありがとう」の一言でよろこびに浸れたら、どんなに幸せだろうか。

現代は元々幸せな人しか幸せになれない

そんなことを数年前から想うようになった。

幸福が自分で掴み取るものなら、苦悩もまたそういう面を含んでいる。

他者より何かを与えられたとき、幸福に慣れている者は、与えられたものを素直に受け取り、その喜びに浸れるだろう。

しかし、奪われることを知っている者は、何かを与えられた瞬間から「奪われる恐怖」と戦うことになる。

「可能性に対する苦悩」ほど度し難いものは無いのだ。

そんな中、明日は「七夕」

彦星と織姫が年に一度の逢瀬を叶える日。

想い合う二人が離れて暮らす、いわば遠距離恋愛中の恋人同士なわけだが。

先述の事柄を抱いてこの関係を聞くと、その素晴らしさが身に沁みる。

「いま何をしているのか」「誰と会っているのか」

離れているが故の「不信」「恐怖」

実態の無い「自らが作り出す苦悩」が、遠距離での関係に於ける一番の敵だろう。

勝手に不安になって、勝手に崩れ落ちる。分かる。

だが、私達は「可能性に苦悩」することもあれば「可能性を喜ぶ」ことも出来るのだ。

たまにしか会えない。

だからこそ「次会ったら」を楽しみに想える。

「もう会えない」可能性に恐怖するか「また会える」可能性を喜ぶかは、私に与えられた自由でもあるのだ。

ついつい隣の芝が青く見え、自分自身が見窄らしく感じてしまう私達。

何かを補いたくて「もっと」欲しがってしまう。

けれど、そこにどんな色を塗るかは私次第

何をどれだけ手に入れても、自分がそれを喜べなければ、いつまで経っても芝は青くならないだろう。

どんな風にも受け取れる世の中。

だからこそ、泣いたり怒ったりしながら、最後には喜べる心を根底に据えて歩んで行きたい。

そんな相を天の川に想いながら、今日も一杯。

 

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

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