「生まれ変わってもまた出遇いたい人は居ますか?」

先々週くらいだろうか、そんな質問を受けた。

基本的に人嫌いの厭世人な私は、誰かに対して「また会いたい」と感じることは殆どなく、そもそも生まれ変わりたいなんて思えない。
一期一会を悪い意味で使っているような人生だ。

しかし、その質問を受けたとき、私は「最近出遇ったよ」と、そう答えた。

昨年出版させて頂いた絵本のモデルとなった庄松同行
その100回忌に際して作られた「庄松賛歌」の歌詞

ほころぶ笑顔の 庄松さん 偲べば光りが あゝさしてくる

この心を実感させられるような出遇いがあった。

また、明治から昭和にかけて活躍した仏教思想家 金子大栄氏はこんな言葉を残している。

「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」

人は死ぬことによって肉体的には消えても、その人の死をかなしみ「いたみ」「とむらう」者がいるかぎり、その人の「花」は散らない。
また逆に、その「花」は「いたみ」「とむらう」者にあたたかい生きるエネルギーを与えるという不思議な力をもっている。
死者が「仏」になるとはそういうことである。

人は誰しも、大切な誰かを心に宿しながら生きている。
そんな存在と出遇えることは稀かも知れないが、しかし今を生きられているということは誰もが花となる存在と出遇い、生きるエネルギーを貰ってきた証なのだろう。

偲べば光が刺してくる
想えば元気が湧いてくる

なんて暖かく有難いことだろう。

苦悩の絶えない人の世で、私達の心から苦悩を取り払うことは出来ない。
しかし、苦悩の中でも上を向いて歩くことは叶う。

涙で滲んだ視界に星を映すか否かは、私が決められることなのだ。

 

しかし、はじめは心底よろこび浸っていた幸福も、いつしか次第に「当たり前」と捉え、慣れてしまう私たち。

「××はいやだ」「もっと〇〇して欲しい」

他者と比べ、妬んだり、羨んだり、想えば沸いてきた元気に満足出来なくなってゆく。

だが、それは光を弱まったのではなく、私が心に蓋をしただけなのだ。

「阿弥陀には、隔つる心は なけれども ふたある水に 月は宿らじ」
浄土真宗八代目蓮如上人の言葉

月はいつだって全てを平等に照らしてくれるが、蓋ある水には宿らない。

苦悩に苛まれる私の心も同じこと。
よろこびはいつだって傍にあるけれど、己自身が苦悩で心へ蓋してしまう。

洗尽人間胸裏埃

私はいま、心に蓋してはいないか。
刺す光を遮ってはいないだろうか。

そんなことを確かめながら、今日も一杯。

You’ll never find a rainbow if you’re looking down.
By Chaplin

 

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

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