一服

「予防医療が広まれば治療しなくて良いのに」

先日読んだ本にそんな台詞があった。

それ聞いて、ふと思い返す。

「前回病院へ行ったのはいつだろう」

持病も特に無く、大きな病気や怪我もしたことがなかった私は定期的に通院という経験も無く、かかりつけ医院というものも持っていなかった。

それでも「健康だし問題無い」と思っていた。

けど、冒頭の台詞でハッとした。

『私は本当に健康なんだろうか』

その本では、病気や身体の異常は日々の生活や癖から少しずつ身体に蓄積されていくもので、健康に過ごそうと思ったら定期的に状態を確認し、正常に戻していかなければならないと書かれていた。

「社会生活」は「他者に合わせる」ことでもある。

行く先々で「和」を乱さぬよう、常に場や人に合わせて協調し、行動する。

それは即ち「自分に無理をさせる」こと。

侍のはく下駄が腰に刺した刀の重みで片方だけ擦り減るように、私たちの身体もまたそうなのだ。

そして、他者に合わせることで歪んでゆくのは身体だけではない。

行きたくない場所へ通い、苦手な人とも笑って話さなければならない日々が続けば、少しずつ「心」も歪んでくるだろう。

そんな心はどこで整えれば良いのだろう。

「ちょいと一服」

世界各国の異なる食べ物や文化の中で、しかし「喫茶」という習慣は人類共通な気がしている。

わざわざ手間隙をかけて味や香りをつけ、それをお供に時を過ごす。

喉を潤す為ではない、心を緩め、自分のリズムを取り戻す為の時間。

一日一杯、一呼吸

人生100年時代の今日には、そんな一息の差が重要なのかも知れない。

『生老病死』

私たちは病から逃げられない。
でも、知っていれば対策が取れる。

生きているだけで少しずつ歪みゆく我が心身。

だからこそ、大きな歪みが生じる前に整えながら生きてゆこう。

今日も良い日だ、お茶が旨い。

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

▶Twitter

https://twitter.com/manohara_mani

▶Instagram

https://www.instagram.com/manohara_mani/?hl=ja

▶Facebook

https://www.facebook.com/myosho