心と和 第十七杯『寂び』
全国で桜も咲き始め、春の訪れを感じる今日この頃。
春に色も形もないけれど、訪れはわかるというのも不思議なことだ。
お彼岸も明け、僧侶も一息つく時期。
昨年末より制作を始めた「しょうまさん像」、その完成がようやく見え始めた。
思えば、この像を含む「しょうまさん」との御縁は不思議なものであった。
その始まりは、仏門に入り初めて作った法話が「しょうまさん」のモデルとなった「庄松同行」にまつわるものであったところにある。
たまたま読んだ曾祖父の本に庄松同行の引用があり、讃岐の人物とあったので「これは良い」と使ったのだ。
それから数年が経ち、宗教界に対する嫌悪と恨みでいっぱいだった頃、「貴方の相手は僧侶ではない、異業種だ」と説いてくれた先輩が居た。
その言葉は、「社会に活きる僧侶」を目指す今の私の根底となるほど大きな影響を与えた。
それからまた時が経ち、先輩からの教えを胸に始めた「異業種との交流」の中で、とある町へ御縁を頂いた。
「地域と関わる以上、先ずは町のことを知らなければ」
そんな想いで様々な方に話を聞いてるうち、「異業種との交流」を勧めてくれた先輩がその町に住んでいるということを知った。
数年振りに連絡を取り、話を伺うと、「庄松同行」もまたその町の出身だということを聞いた。
「宗派や地域にとって大切な人だが、今やその存在を知る人も減ってしまった」と哀しそうに語る姿を見て、自身が救われたことに対する御礼の気持ちもあり、「何か出来ないか」と思うようになった。
その頃の私は、町での活動にほとほと嫌気がさし、地域との縁を切りたい気持ちでいっぱいだった。
しかし、絵本「しょうまさん」の為に町を訪れる必要があり、町との縁は継続された。
そこで出遇った方々との縁は、また私を救って下さるものだった。
町での想い出を誇らしげに語る姿。
これが、泣きそうなほど嬉しかった。
「ここは良いところだよ」と、伝える気も無く伝わったその想いに心の底から救われた。
それはまるで、宗教界に対する嫌悪から解き放って貰った数年前のような出遇いだった。
そんな経緯があってか、しょうまさん像に触れているときはとても心が穏やかで、この像は誰もが「かわいい」と言ってくれる。
それはきっと、恨みや辛みではなく「よろこび」に導かれてつくられたものだからかも知れない。
きっとこの先、また何かを嫌悪し、恨みたくなる時は必ず来るだろう。
しかし、だからこそ、今の心を遺したい。
そんな想いから、仏像というものは生まれたのかもしれないな。
全てを呪い、嫌い、恨んだ己が、それでも「世界を慈しんだ」証。
この像に触れた時だけは、その心を思い出せますように。
「さびたるは良し、さばしたるは悪し。」
なんて千利休の言葉じゃないが、物の風情も人の味わいも、時と想いを重ねたからこその物種だろう。
人生に於ける苦悩を、心の「汚れ」でなく「寂び」として。
「水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶を点てて、仏に備え、人にも、我も飲む。」
残すべき心を遺し、脱ぎ捨てるべき想いを洗い流すように、今日もお茶を一杯…ぷはぁ。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
https://twitter.com/manohara_mani
https://www.instagram.com/manohara_mani/?hl=ja
https://www.facebook.com/myosho