2022年2月22日

昨日は、100年に一度の「スーパーねこの日」でしたね。

そして、今回は心と和の第十「二」杯。

にゃんということでしょう。

これはただならぬ御縁だ。

ということで、今回はネコ話です。

 

そもそも、仏教とネコさんの縁は深く。

その始まりは、仏教が中国より日本へ渡って来た際、経典の守り人ならぬ守り猫として連れて来られたところだと言われています。

それからというもの、ネコさんは可愛さのあまり僧侶が修行に集中出来ずお寺を出禁になったりはしたものの(史実)伝来以後、仏教と共に歩んで参りました。

そんな歴史をあらわすように、お寺とネコさんの話は日本各地で語られており、私の所属する宗派でもこんな話が残されています。

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香川県東かがわ市の三本松に伝わる妙好人「庄松同行」の故事より

『南亀田村某宅法座の時、座敷の天井に鼠があれさわぎたれば、庄松曰く「雑行雑修の鼠が出をつたなあ、今発願猫にとらしてやる」と申したとの事』

*雑行雑修の自力の善根も、名号六字の発願回向には、一瞬の露と消えさる果敢なさ。
騒ぐ鼠賊にも似た妄念凡夫の自力の弱さよ。またそのしぶとさよ。

(「庄松同行 ありのままの記」より)

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我が身に宿る煩悩と仏の救い鼠と猫に例えたもので、意訳するなら

「お前の頼りにする自分の力なぞ仏の手に掛かればイチコロよ、しかしそれでも自分を信じようとするその心のしぶとさは中々のもんだ」

仏の手に掴まってもスルリと逃げ出し、何度も現れる煩悩さん。

私の心の中では、ト○&ジ○リーが繰り広げられていたんですね。

 

時に、世の中には「私の家に勝手に入って悪さをするから嫌い」とネコさんを嫌がる方々も居ります。

ですが、そもそも「家」とは誰のものでしょう。

一歩引いて考えると、私達の言う「私の家」はあくまでも「人間社会」における取り決めであって、動物達は別に了承していないのです。

むしろ、動物や自然からしたら「オレ達の住まいを荒らす人間達」かも知れません。

 

人間同士のやり取りでも、ついつい「私のもの」という煩悩鼠が騒ぎ出してしまうけれど、しかし「本来『私のもの』などどこにも無い」ということを発願猫はちゃんと教えて下さいます。

その声に耳を傾ければ、多少の悪さを笑って許す余裕も生まれることでしょう。

 

みんな心に発願猫

 

「ネコは小さなお坊さんみたいなものだから、大事にするように」と、行きずりのタイ人が言ってました。

「ネコはアッラーがくれた神聖な動物です、面倒を見ていると幸せな気持ちになれるのです」と、通りすがりのインド人も言ってました。

 

世界を救うのは、愛じゃなくネコかも知れません。

 

にゃんまんだぶつ

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

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