心と和 第四十一杯『格好』
「説経師は顔よき。つとまもらへたるこそ、その説くことの尊さも覚ゆれ。ほか目しつれば、忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。このことは、とどむべし。少し年などのよろしきほどこそ、かやうの罪得方の事も書きけめ、今は、いと恐ろし…」
これは「春はあけぼの〜」の書き出しで有名な名作『枕草子』で、僧侶について語られた一節である。
内容は↓
「仏法を説く人はイケメンのほうがいい。そのほうが顔に見とれつつ話も自然にちゃんと聞けて内容の良さもわかる。ブサイクな人の話だと顔を背けてしまい、説法の内容も忘れてしまうので、罪を犯した気分にすらなる。こんなことは書かない方がいいのだが。若い頃ならこんなことも平気で書いただろうけど、年をとってくると仏罰はとても恐ろしい…」
清少納言はキッパリとした性格だったようで、こと外見について言及した文章は多く残されている。
「取りどころなきもの。かたち憎げに、心悪しき人。」
(ブサイクで性格の悪いヤツは何の取り柄もない)
現代SNSで書いたら炎上しそうな切れ味だ。
しかし、これは真実でもあるのだろう。
社会生活において「格好つける」ことはあまりよく思われない。
私自身オシャレはあまり良くないこととして育てられ、20才頃まで化粧はしたことが無かった。
だが、それで得をしたことがあるかと言われれば、ほとんど無い。
むしろ、きちんと化粧をして、オシャレをするようになってからの方が様々な得に恵まれた。
それまで「自分はブサイクだから内面を磨くしかない」という考えで生きてきた私は、外見を諦めていた。
そして「外見じゃなく内面で判断して」と、他者に深入りすることを押し付けていた。
しかし、残念ながら他者はそこまで暇じゃない。
万人が万人へ真剣に向き合うことは不可能で、また向き合う相手は「外見を含めた第一印象」で決まる。
それを「外見だけで判断しないで」と押し付けることはただの我儘で、そんな考えがより他者を寄せ付けなくしていたように思う。
「外見は内面の一番外側」
人は、誰かにプレゼントを贈る際、中身と一緒に包装もこだわって用意するだろう。
「中身が良いものだから」とビニール袋や新聞紙に包んで渡すようなことはなく、むしろ良いもの「だからこそ」綺麗な袋を用意したくなるはずだ。
外見に恵まれなかったから、内面の努力をした。
「だからこそ」外見に反映されるべきだった。
一般論の美醜に寄せるのではなく、自身の内面を伝える為の格好付け。
どんなに素晴らしい教えや想いも、聴いてもらえないことには始まらない。
その第一歩「聞く耳」を持たせる術が『外見』だったのだ。
人の心は目に映らない。
しかし、伝わらない訳ではない。
視覚や聴覚、五感を通して「感じる」ことは出来る。
心の見えない私達。
だからこそ、心を顔や声に変え、他者へ伝えてゆこう。
外見は頼るものではない、使うものなのだ。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
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