昔のこと。

とある人達の言動によって心身ともに衰弱し、重度の鬱で死にかけたことがあった。

でも、悪意と敵意は確かに有るが、明確な攻撃と言えるものはなく、そのせいで「気のせい」「勘違い」「気にし過ぎ」と言われ続けた。

確かに受け、尚受け続けている苦痛を無かったことにされ、加害者はのうのうと幸せを満喫していることが堪らなく悔しくて、「自分が死ねば伝わるだろうか」と毎日考えていた。

不整脈で倒れる度に「これは人殺しにならないのか」と悔しかった。

苦痛はやり場の無い怒りとなり、心はどんどん捻じ曲がっていった。

人間同士、理由なくとも気に入らない、なんとなく嫌いと感じることもあるだろう。

でも、だから敵対しなければならないのかと言えば、そんなことはきっと無い。

仲良くなれずとも、せめて傷つけ合わないでいることは叶うだろう。

「気に入らない」相手

だからこそ、自らの心には凶器が宿っていることを自覚して「傷付けない」ように努めることが肝要なのだ。

きっと、私も相手を傷付けることをしていたのだろう。

心当たりだってあるし、それによって相手が嫌悪感を募らせていく様を覚えている。

違和感を覚えた時点で話し合い、妥協案を探れていたなら、あそこまで拗れることはなかったのかも知れない。

お互いに想いや考えを伝えることなく、己の悪意を認めることなく、ただただ傷付けあったからああなったのだと思う。

違和感」は生きる上で避けられない。

けれど、その違和感を「悪意」「敵意」に変えないことは叶うと思う。

自分では気付けなくて、誰かに刺さって初めてわかることもある。

だからこそ、罪を認め、刃を収める動作を私達は覚えなきゃいけない。

「もう同じことは起こさない」

それが相手に出来る唯一の誠意だろう。

平和とは、自らが悪人だと認めることから始まるのだ。

 

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

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