遊鴨河煮茶
擔茶具出蝸舎
擇檻泉遊鴨河
鼎裏非人間味
神仙何覓瑤池

鴨川に遊び 茶を煮る
茶具を担い 蝸舎を出て
檻泉を択んで 鴨河に遊ぶ
鼎裏 人間の味に非ず
神仙 何ぞ瑶池を覓めん

江戸時代、路肩で茶席を設けて煎茶文化を広めた茶人『売茶翁』の残した言葉だ。

鴨川のほとりに出かけ、茶を煮る。
茶道具を肩にかけ、狭い我が舎を出て、鴨川の泉から水を汲み、茶を煮てたのしむ。
そうしてつくった釜の茶は、俗っぽい人間界の味ではない。
神仙にも通じる味で、これを知ったならば、仙郷の瑶池の水を求めることもない。

 

先日お邪魔した広島・三段峡での茶会は、正にそんな風体だった。

日本画がそのまま出でたような、「現世にこんな空間があるのか」と思わずこぼしてしまう情景。

そこで淹れられた茶がまた…

普段淹れていた茶がどれだけ水に邪魔されたものだったのかを実感するような、茶葉の本気を感じる味だった。

酔える。

「自然は放置すれば良いというものでもない、人の手を良い具合に入れて共存することが一番大切なんだ」

そんなことを茶会にて教えて頂いたが、今ならより頷ける。

 

北海道に生きるアイヌ民族の方々は狩りの際、「当たりに来てくれる」と考えているらしい。

仕留めた獲物は、人間を生かす為に身を差し出してくれた。
だから、一つとして無駄にすることなく感謝の内に頂く。
そして、その魂は他の神へ「人間界は良いところだった」と伝え、また降りて来てもらう為、丁寧に神の国へ送り返す。

そう巡り巡ることで世界は成り立っている。

 

僧侶という立場で世を生きていると「浄土」「仏」といった言葉を口にすることがあるが、それは私達の生きる世界と隔絶されたものではなく、ちゃんと繋がっているのだなぁと想う。

人間の作ったものは、どうしたって人間の域を出ることは無いが、自然の力を借りればその限りではない。
「享受する身」である己の弱さを受け入れることで私達は生きて、また「生かされて」これたのだろう。

人間同士が手を取り合うことで数々の苦難を乗り越えて来たように、自然もまた手を取る相手なのかも知れない。

心強いことこの上ないねぇ。

 

そんなことに想いを馳せながら、お茶を一杯。

神仙に通じる味がする…

片岡妙晶

真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使

ネコさんと売茶翁が好き

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