心と和 第三十六杯『愛憎』
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がある。
あるものを憎むと、それに関連する全てのものが憎くなってくるという意味の諺だ。
私は、これをよく実感する。
学生時代、学校に対する苦手意識から、学生や本屋の教材コーナーすら、目にしただけで気分が悪くなった。
一度苦手意識が染みつくと、全てが嫌なものに見えて来て、世の中がどんどん生きづらくなってゆく。
それは「自分で自分の首を絞めるようなもの」だと分かっていても、収めることは難しかった。
苦手意識は毒のようにじわじわと広がり、手に負えないものとなってゆく。
そのうち、全く関係のない人の姿や声、物音など、世の全てが苦悩の種となった。
気配に怯え、息を潜め、何も感じないことしか出来ない、そんな自分はもう死ぬしか道はないと考えるようになった。
しかし、そんな苦悩とは裏腹に、時が立ち毒が広がるほど、その苦痛は「勝手な思い込み」として周囲の理解を得難くなる。
「悪意があったわけじゃない」「気にし過ぎ」
これが身体的な傷で、抉られた痕やそれによる後遺症なんかが目に見えたなら、周囲の反応はまた違ったろう。
だが「目に見えない」というだけで、人は「無かったこと」にしてしまう。
誰だって、わざわざ他人のイザコザに関わりたくはない。
側から見れば「火のないところに煙を起こそうとしている」だけなのだ。
それほどまでに、人の心とは難しい。
人に心が無かったなら、世の中に争いは生まれなかっただろう。
何をされても何も思わなければ、誰かを嫌い、憎むことも無かったろう。
人に心さえなければ、こんなに苦しい思いをせず済んだのに。
しかし、心が人へ齎すのは苦しみだけではない。
「喜怒哀楽」というように、喜びもまた心が有る故の思いなのだ。
そして、なにを喜び、なにを哀しむかは自分で決められる。
他者に「残念だったな」と言われても、本人が「ラッキー」と思えたなら、それは間違いなく幸せだろう。
傷付けられた苦しみを、苦しいからとて「不幸」と背負う必要は無いのだ。
起こる出来事は変えられないし、生きる上で苦悩から逃れることはできないが、その受け止め方だけは好きに出来る。
腹が立って仕方のない出来事も、怒りや哀しみが落ち着いたら「励み」にして良いし、喜んだって良い。
「心」は私達の苦悩の種で有ると同時に、この世で与えられた唯一の自由でも有るのだ。
目に見えない、他人には分からない。
だからこそ、心くらいは私の想うものにしてゆこう。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
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