心と和 第二十五杯『春闌』
「暖かい」通り越して「暑い」日も増えてきた今日この頃。
草木は青々と生茂り、陽射しも鋭くなってきた。
日本は「四季」を持つが、それぞれの季節も「三春(初春・仲春・晩春)」と三つに分けて呼ぶらしい。
確かに、まだまだ余寒の残る初春と夏を目前にした行く春を同じ扱いは出来まい。
そんな機微を読み取る日本人の感性の繊細さ・表現の豊かさは、やはり流石だなぁと歳を重ねるごとに噛み締める。
「名前を付けられれば、人間はその事柄と関係を持てるようになる」
そんな言葉をドイツの文学作家、ミヒャエル・エンデさんが残しておられるが、その心でゆくと日本人はとても多くの事柄と関係を紡いできた民族なのだろう。
要件だけでは無い「心を通わせる対話」の重要性を生活の中で知っていたのだろう。
同じ事柄を伝えるでも、言葉選びによって「モラハラ」「パワハラ」となってしまったりするように、言葉は対人においてとても大きな力を持つ。
そして、人は自分が聞いてきた言葉しか口にすることが出来ない。
罵倒しか受けたことのない人は他者を褒める言を持たないし、愛情を知らない者は愛の言葉も吐けないだろう。
だからこそ、私達は豊かな語彙を用いて、互いに美しい言葉を聞かせ合ったのかも知れない。
我が身が悪態で満たされてしまわぬよう、心穏やかに生きられる世界と関係を結べるよう、言の葉を紡いで来たのだろう。
やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける
「古今和歌集」にて書かれた紀貫之の言葉。
心を「種」、ことばを「葉」と例え、これが「言葉」という漢字表現の由来だとされている。
当時は他にも「詞」「言羽」なんて様々な表現があったそう。
が、どの表現も「葉」「羽」といった「舞い落ちる」ものを当てられているのは、やはりそういうことなのだなぁと想う。
ことばには色も形も無いけれど、それが人の心を紡ぎ、いつしか形となる。
他者の命で我が身を作るように、他者の心に育てられる私たち。
今のこの時は何とあらわそう。
表現に迷えるほどの言葉に恵まれた日本人は幸せ者だなぁ。
なんて、花束を結わうように言葉を紡いでいけたら…と、今日も一杯。
片岡妙晶
真宗興正派 僧侶・宇治園製茶公認日本茶大使
ネコさんと売茶翁が好き
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